文明開化の方法として欧化政策が取られたが、あまりにも急進的だったため、西洋文化の受容は上辺だけのものになりがちであった。特に富国強兵を最大の目的とした明治政府の政策は、必ずしも国民の生活に根ざしたものではなく、民間の批判を招いた。また、当初は国の独立をもたらすために西洋文明の摂取に力を入れてきたが、その過程で日本固有のものが失われてしまうと危惧する声も上がった。このような危機感を背景に、国民の政治への参与を求める国民主義、国粋保存の運動が台頭した。
徳富蘇峰・三宅雪嶺・陸羯南 1887(明治20)年、徳富蘇峰が民友社を設立し、雑誌『国民之友』を発行し、平民的欧化主義を唱えた。個人の自由と平等を前提とした上での西洋文化の摂取を主張した。一方、1888(明治21)年、三宅雪嶺(1860-1945)を筆頭とする政教社からは、機関誌「日本人」が発刊され、その翌年に陸羯南(1857-1907)を中心に国民主義の機関新聞「日本」を発行された。彼らは西洋文化を無批判に模倣することに反対し、日本固有の伝統の中に「真・善・美」という価値の基準を追求しようとした。
これらの国民主義・国粋主義者は「国民精神の回復蕩揚」と「国民団結の鞏固」を呼びかけ、西洋文明の摂取に批判的な態度を取った。彼らは、外来の文化を一方的に排除しようとしたのでなく、東西文化の並存を目指したのである。例えば、政治体制の改革においては、従来の国家主義と西洋の個人主義を両立させる形でイギリスのような立憲君
— p.152 —
主が唱えられた。また、ヨーロッパの文学が注目されるとともに、元禄時代の文学も再評価されるという当時の文壇の動きもこうした時代の風潮を反映していると言える。1890(明治23)年に発布された『教育勅語』(日本の教育の基本方針を示した明治天皇の勅語)にも、「忠君」という封建倫理と「愛国」という近代倫理とが併記されている。これは伝統的な「尊王」の思想に西洋の近代的な愛国心を付け加えたものである。
ただし、この時点で東西文化の要素は単に並存していただけで、まだ有機的に関連づけられていなかった。また、国民の立場に立っているはずのこれらの思想は、日清戦争(1894-95)を契機に、政府を批判しなくなり、次第に国家主義に同化されていった。
明治日本の諸制度における東西文化の本格的な融合は、明治20年代後半の民法編纂に伴う「家制国家」の成立の際に試みられた。「個人」を本位とするヨーロッパの民法を取り入れるにあたり、「国家」あるいは「家」を主位とする日本従来の制度をどこまで維持するかが課題となっていた。
穂積八束 当時、国民主義者は「国民的統一」の強化、および「国家的個性」の回復を唱えていた。民法の編纂に参与した穂積八束(1860-1912)がそれに呼応する形で、個人を本位に契約の自由を許す財産編の規定を、貧富の格差や労資の対立をもたらすとして、国家的精神をもっと入れるべきだと主張した。そして、身分編についても夫婦や兄弟を個人の関係とするヨーロッパの制度よりも、家を本位とし
— p.153 —
て親族を家制関係で捉える従来の立場を保つべきだと提言した。結局、身分編についてしかその提言は聞き入れられなかった。1898(明治31)年に公布された『明治民法』には、個人主義・自由主義的な財産編と、家制主義・封建主義的な身分編とが共存することになっている。このような混在の状態でなく、財産編の規定は身分編の規定の上にはじめて行われるという、互いに矛盾しながら関り合っている仕組みとなっていた。この二重構造によって成立した「家制国家」の制度こそ、伝統的な価値観と近代的な資本主義との融合を象徴していよう。
徳富蘇峰が平民主義を唱えるに際し、すでに「個人」や「社会」の問題を取り上げたが、当時は単に観念的なものとして見なされていた。日清戦争後、西洋の帝国主義の重圧と日本の資本主義の発達によって、その対立概念として個人主義と社会主義がようやく現実味を持って台頭し、当時主流となっていた家族国家主義に対抗の姿を示すようになった。
高山樗牛・与謝野晶子 まず、個人主義については、高山樗牛(1871-1902)が雑誌『太陽』で日本主義を唱えて列強の帝国主義に対抗するとともに、1901(明治34)年に「文明批評者としての文学者」でニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900、ドイツの哲学者)流の個人主義・超人主義を説き、また「美的生活を論ず」で「人間本然の要求」に基づく個人主義を唱え、自我の意識を本能の方向に発展させた。さらに日蓮上人(1222-82、鎌倉時代の僧、日蓮宗の開祖)を「国家をも犠牲とする偉大なるエゴイスト」と見なすように、国家よりも自我を優先させることをほのめかした。ほかにも女性歌人与謝野晶子(1878-1942)が1900(明治33)年に雑誌『明星』(短歌の革新
— p.154 —
が目標)を刊行して浪漫主義的な歌を数多く詠み、自由恋愛を主張して家制国家の倫理に挑戦した。
日露戦争(1904-05)の後、政府は当初民法に入れた家制国家の理念を、教育を通じて広く国民全体に浸透させようとした。東京帝国大学教授の井上哲次郎(1856-1944)も1911(明治44)年に『国民道徳論』を書いて家制国家の理念を宣伝した。しかし、これによって個人主義の思想は一層国家に逆らおうとするようになった、後述するように、個人と家との葛藤や、個人の愛欲をテーマとする自然主義文学もこの時期の個人主義の例である。ただし、自然主義の思想は反抗精神を持っていても、積極的な行動で国家に対抗しているわけではなく、単に国家から背を向けていただけである。
一方、資本主義の発達による貧富の差の拡大や、日露戦争後の経済的不況などを背景に、社会主義の思想も起こってきたが、国家の激しい弾圧によってかえって暴走し、ついに無政府主義まで発展してしまった。
幸徳秋水 例えば、1903(明治36)年に『平民新聞』を発行して日露戦争に反対した幸徳秋水(1871-1911)が、後に入獄を経て政党による社会改造を否定して暴力革命を主張するようになった。1910(明治43)年、明治天皇暗殺を計画したという理由で、多くの無政府主義者が逮捕され、幸徳秋水を含む12名が死刑にされた(大逆事件)。
青踏社 この時期、無政府主義者の大杉栄(1885-1923)と、青踏社の伊藤野枝(1895-1923)・神近市子(1888-1981)とが交際していた。青踏社とは1911(明治44)年に平塚らいてう(らいちょう)(1886-1971)らによって結成された婦人運動の団体で、女性の覚醒を促し、自由恋愛や自由結婚を唱えていた。そのメンバーたちも「新しい女」
— p.155 —
と呼ばれていた。この恋愛事件は、両者とも国家や家という体制に反抗する者という意味で、まさに時代を象徴する出来事であった。
その後、平塚らいてう・市川房枝(1893-1981)らによって新婦人協会(1920)が設立され、男女同権や女性の権利擁護に取り組んだ。市川房枝らはさらに女性の参政権の獲得に乗り出した。一方、山川菊栄(1890-1980)・伊藤野枝らによって最初の女性社会主義団体である赤瀾会(1921)も結成されたが、政府の弾圧を受けて一年足らずで消滅した。
御用新聞 江戸時代の瓦版に引き続き、明治初年にも旧幕府時代の『中外新聞』や明治政府の『太政官日誌』などがあったが、1870(明治3)年に創刊された『横浜毎日新聞』が民間による最初の日刊紙である。その後、1872(明治5)年の『東京日日新聞』をはじめ、新聞が次々と発刊されていったが、その多くは政府の支援を受けていた、いわゆる御用新聞であった。政府からの情報を民衆に伝えるなど文明開化の推進という役割を担っていたが、読者の新聞への関心は一向に高まらなかった。
反政府の新聞 1874(明治7)年に御用新聞だったはずの『日新真事誌』に政府の専制を攻撃する板垣退助の民撰議員設立建白書が掲載された。これをきっかけに、各紙は反政府の記事を載せるようになり、読者にも歓迎された。そのうち『郵便報知新聞』のような反政府論を掲げるメディアまで現れた。これに対して政府は1875(明治8)年に新聞紙条例などを定め、記者を逮捕したり、新聞を発禁処分にしたりして弾圧を始めたが、西南戦争(1877、西郷隆盛を頭とする不満士
— p.156 —
族による武力反乱)の後、自由民権運動が高まるに伴い、政党は主要な新聞紙を機関紙にしてその理念を宣伝するようになった。自由党系の『自由新聞』や改進党系の『郵便報知新聞』などがそれであった。
1881(明治14)年の北海道官有物払い下げ事件で政府批判の世論が沸騰したことを受け、政府は新聞紙の取り締まりを一層強めるとともに、政党幹部を買収したり、仲違いさせたりして各政党機関紙を廃刊に追い込んだ。
なお、明治期の新聞のうち、政論などを中心に掲げるものは「大新聞」、興味本位の記事や小説などを載せるものは「小新聞」、とそれぞれ呼ばれていた。明治20年代になると、両者の性格を兼ね合わせながらニュース報道に重点を置いたものが現れ、全国的な商業新聞に発展していった。新聞界の政党離れも進み、「不偏不党」を宣言するようになった。
一方、『日本』や『国民新聞』、『万朝報』など一定の理念を掲げた独立系新聞も現れた。例えば、1892(明治25)年創刊の『万朝報』は様々な社会問題を暴露することで多くの知識人階層の読者を得た。また、日露戦争中に反戦を主張し続けた『平民新聞』(前出)もこうした独立系新聞の流れの中から出来たものである。
明治末期になると、戦争の勃興に伴い、一部の新聞は夕刊を発行し、さらに号外も出すようになった。こうしてニュースの報道を主とする新聞が有力となり、東京では『時事新報』、『報知新聞』、『東京朝日新聞』が、大阪では『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』がそれぞれ地位を固めた。そのうち、『朝日』『毎日』の大阪系2紙は、後に全国紙にまで発展していった。
— p.157 —
『文学界』 浪漫主義は十八世紀末のヨーロッパで起きた文学思潮で、個性の尊重や自我の解放を特徴とする。1893(明治26)年に創刊された雑誌『文学界』の同人たちを中心に、日本の浪漫主義が展開していった。彼らは、文学の自立を主張するとともに硯友社の卑俗的な写実主義を批判した。「厭世詩家と女性」(1892)という評論で恋愛の神聖性を主張した北村透谷(1868-94)が指導者となり、その影響を受けて島崎藤村(1872-1943)も新体詩集『若菜集』(1897)を発表して青春や恋の苦悩と喜びを歌い上げた。
初期の森鴎外 また、ドイツ留学の体験に基づいて書かれた、『舞姫』(1890)をはじめとする森鴎外(1862-1922)の初期三部作も、浪漫主義の先駆的な作品である。特に恋人を捨てて帰国する主人公心中の葛藤を描く「舞姫」においては、二葉亭四迷の「浮雲」と同じように、人間の願望とそれを阻む社会との矛盾・対立の問題が取り上げられている。封建的なものからの解放、および近代的な自我の確立という明治の知識人の抱える課題が浮き彫りにされる形で、官僚や家という社会体制への批判も込められている。
『明星』 その後、浪漫主義は与謝野鉄幹(1873-1935)・与謝野晶子の主宰する雑誌『明星』の同人らによって受け継がれることになった。特に与謝野晶子は詩集『みだれ髪』(1901)で女性の恋愛感情を率直かつ大胆に歌い上げ、世間の注目を浴びた。また、日露戦争に行く弟のために、「君、死にたまうことなかれ」(『明星』1904年9月号)という歌を作っており、非戦論者としても知られる。
なお、自我の尊重と本能の満足を掲げる高山樗牛の個人主義(前述)も、浪漫主義の側面を持ち合わせている。浪漫主義の作家としてはほかに、『高野聖』(1900)で神秘的・幻想的な作風を示す泉鏡花
— p.158 —
(1873-1939)や、『武蔵野』(1901)をはじめとする抒情的な短編集を書いた初期の国木田独歩(1871-1908)などが挙げられる。
ヨーロッパでは十九世紀末、浪漫主義への激しい反動として、ゾラ(Emile Zola, 1840-1902、フランスの小説家)によって自然主義が唱えられ、科学的な現実解釈による自我の否定が主張されている。日本ではゾラの影響を深く受けながら、自我の追求という浪漫主義の課題を継承する形で自然主義が展開していった。例えば、小杉天外(1865-1952)の『はやり唄』(1901)や、永井荷風(1879-1959)の『地獄の花』(1902)などが日本の自然主義文学の先駆で、ゾラにならって遺伝と環境に支配される人間の運命を描こうとした。
島崎藤村 ただし、日本における自然主義の発展を方向付けたのは、自我の問題を取り上げる島崎藤村と田山花袋(1871-1930)であった。浪漫主義の詩人として出発した藤村は、1906(明治39)年に自然主義の小説「破戒」を発表した。日清戦争後の社会の矛盾を批判する当時の文壇の傾向と同じく、藤村も部落民の差別問題を取り上げたが、主人公に作者自身が投影されている。近代的自我の表出の課題を社会の問題に結びつけているのが特徴であるが、その後の作品「春」(1908)などでは心情が変わり、自伝的な方向をたどり、告白小説へと発展していった。
田山花袋 藤村と同じように、田山花袋も当初は浪漫主義的な作家であったが、ゾラの影響で自然主義に転じた。1907(明治40)年に発表した「蒲団」では、中年作家が女弟子に寄せるひそかな恋慕を露骨に描いているが、作者自身が主人公のモデルとなっており、私小説の端緒となった。その後、一切の主観を排して対象を事実そのまま再現しようとする「平面描写論」を説いて「田舎教師」(1909)などを書いた。
— p.159 —
このように徹底した客観描写と自己告白の傾向に加え、さらに無理想・無解決という虚無的な人生観なども日本自然主義の基本的性格となった。徳田秋声(1871-1943)・岩野泡鳴(1873-1920)・正宗白鳥(1879-1962)らほかの自然主義作家にも共通して見られる特徴である。
明治後期の自然主義文学の風潮とは対照的に、理想主義的な人生観を掲げて倫理的、理知的な作品を書いていったのが、夏目漱石(1867-1916)と森鴎外である。
夏目漱石 明治期の世相を風刺したユーモア小説『吾輩は猫である』(1905)で出発した漱石は、近代人の自我の不安を探求しようとした。『三四郎』(1908)をはじめとする前期の三部作を経て、『こころ』(1914)で締めくくる後期の三部作では近代人のエゴイズムをさらけ出した。未完作『明暗』(1915)では「則天去私」という調和的な境地を目指した。
森鴎外 一方、浪漫主義から出発した鴎外は、明治天皇の崩御に伴う乃木希典大将の殉死を契機に、『興津弥五右衛門の遺書』(1911)をはじめとする歴史小説に転じた。また、『高瀬舟』(1915)などでは過去の事件を現在の社会の問題と関連付けると共に、「歴史其儘」と「歴史離れ」との間を探り続けたが、晩年には事実を淡々と書き綴る「史伝」の世界に入っていった。
二人の文芸活動は、西洋の知性と東洋の伝統との対立・調和という、日本近代化の大きな課題と関わるところも多く、注目に値する。
明治維新の直後、日本の伝統文化は文明開化の波に流され、ほとんど注目を受けていなかった。明治中後期になると、むやみな欧化への
— p.160 —
反省から、ことさら西洋文化の造詣の高い知識人たちによって、日本文化は見直され、世界的な視野から再評価される機運が起こった。特に新渡戸稲造(1862-1933)と岡倉天心によって、これらの伝統文化が英語で語られ、直接西洋へ発信されることとなった。
『武士道』 アメリカ・ドイツ留学を経験した新渡戸稲造は、1899(明治32)年に欧米の読者を対象に英語で『武士道』を刊行した。武士道の定義をはじめ、その起源や主な徳目、切腹ないし女性との関わりなど、幅広く論じられている。
日本を代表する伝統文化としてほかならない武士道を取り上げたのは、西洋のキリスト教に相当するからである。キリスト教との比較に際して仏教や儒教よりも武士道のほうが適切なのは、新渡戸によると、西洋の社会におけるキリスト教の道徳と同じように、武士道も日本社会の秩序を支える道徳的規範として働いているからだという。この意味で、明治維新後のいわゆる「天皇制」を支えたのも、日清戦争の時の「挙国一致」を裏付けたのも、武士道の精神であった。
このような武士道解釈は、日清戦争以来日本への関心が高まっていく欧米社会では大きな反響があったようである。当時、アメリカの大統領ルーズベルト(Theodore D.Roosevelt, 1858-1919)まで武士道を尊敬していたという。
岡倉天心が日本の伝統美術の復興に尽力したことは前述したとおりである。新渡戸稲造と同じように、天心も欧米社会に向かって、英語で日本の文化を紹介している。主な著作に『東洋の理想』(1903)や『茶の本』(1906)などがあり、いずれも近代西洋の物質文明に対して東洋の伝統的な精神文化の優位を語るものである。
『東洋の理想』 まず、「アジアは一つ」で始まる『東洋の理想』では、中国とインドの文明をはじめ、飛鳥時代から明治時代までの日本の文化を一通り概説した。結論としては分業化・機械化の進む近代
— p.161 —
社会では、手作りの作業を通してしか得られない芸術的、精神的な喜びを味わうことができないとし、東洋の伝統文化の復興を主張している。
『茶の本』 茶を軸に様々な話題を織り成していく『茶の本』であるが、特に注目すべきなのは、日清・日露戦争における日本の戦闘精神をもって日本の文化を見ようとする考えを、侵略主義的な発想によるものとして批判し、茶のうちに見出せる平和的な境地こそ日本文化の真髄だと述べているところである。明らかに新渡戸稲造の『武士道』に対する発言で、それと全く対照的な日本文化の提示でもあった。
ただし、『東洋の理想』冒頭の「アジアは一つ」は、太平洋戦争の際に大東亜共栄圏の宣伝にさえ利用され、天心の思想は必ずしも正確に理解されているわけではなかった。
— p.162 —
確認してみよう
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
— p.163 —
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保喬樹『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年
— p.164 —